パンデミックのグローバル史研究文献紹介7: Birsen Bulmus, Plague, Quarantines and Geopolitics in the Ottoman Empire , Edinburgh University Press, 2012. 本書は、著者自身が説明するところによると、オスマン帝国が成立する 1300 年ごろから第一次世界大戦の終焉にいたるまでの期間において、疫病、国家の統治権、そして隔離政策を地政学的観点から分析しようとするものである。しかし、実際に分析されるのは、中世のガザーリー (1058-1111) 、イブン・アル=ハティーブ( d. 1375 )、イブン・アル=ハイマ( d. 1369 )、そして近世のイドリース・ビトリスィー( d. 1520 )、ケマッレッディーン・タシュキョプリュザーデ( d. 1621 )に至る、イスラーム世界の疫病への対処の歴史を参照しながらも、重商主義が進む 17-18 世紀のイギリスで取られるようになった隔離という方法を採用したハムダン・イブン・アル=メルフム・オスマン・ホジャ( 1773-1840 )の事例が中心的である。 著者は、 1838 年のハムダンによる公衆衛生改革と隔離の実施を、イスラームにおける疫病にまつわる思想の系譜と英仏の事例との比較という手段を通して検討することを試みている。その分析において、史料として用いられているのは、イスラームの思想家たちが疫病に関することを述べたテクストに加え、ヨーロッパ人(特に英仏)が残した日記や文学である。 以下で本書が述べている内容を簡単に見ていくことにしたい。イスラーム世界では、上述のビトリスィーやタシュキョプリュザーデといった人物がペストが瘴気によっておこるという指摘をしていたのに対し、ヨーロッパ諸国では、ボッカチオやジローラモ・フラカストロが病原菌による伝染を説くなど、疫病の感染に関してはイスラームと西洋双方でさまざまな意見が出されたが、その実践段階つまり感染症対策として隔離施設が建てるなどの施策にかんしては、ヴェネツィアやイタリア周辺の都市国家に限定されていた。 この状況が転換していくのが、重商主義が隆盛するイギリスにおいてであった。 17-18 世紀のイギリスにおいては、病原菌による伝染が疑わしいということを理由に他国か
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パンデミックのグローバル史研究文献紹介6: L. Engelmann, J. Henderson and Ch. Lynteris (eds.), Plague and the City: The Body in the City , Routledge , 2019. 本論文集は、疫病の流行についての言説および実際に採用された感染対策において、いかにして疫病と都市が結びつけられるようになったかを問う。具体的には、政府と専門家集団が、何世紀にもわたり、都市における感染発生を防ぐためにどのような対策を採用しようとしてきたか、またそうした彼らの意図にもかかわらず感染が拡大したとき、その影響をどのように鎮めようとしたかを検討する。また、「見えない敵」であると考えられてきた疫病の可視化にも注目し、疫病にまつわる表象の問題にも焦点をあてる。本書は序章と 7 編の論文によって構成される。各論文が対象とする時期は中世から近現代の植民地支配期にわたり、地理的範囲はヨーロッパ、アジア、アフリカ、太平洋をカバーする。歴史学のみならず視覚研究や人類学などの分野横断的アプローチが採用されている。 第 1 章は、中世イングランドにおける食肉処理にたいする規制を取り上げる。疫病の原因が科学的に明らかにされていなかった時代にあって、食肉処理は空気を汚染し、疫病の源となる有害な気体を生じさせると考えられていた。そのため、疫病対策の一環として、この生業は都市中心部から追いやられることになった。それぞれ近世ロンドンとフィレンツェを扱う第 2 章・第 3 章は、当時の言説のなかで、悪臭や不潔さが、疫病を生み出す「見えない敵」として、貧者やその生活様式を含めた都市環境の問題と結びつけられていく過程を跡づける。これらの論考は、世俗権力と民衆の双方が、都市を清潔に保ち疫病を駆逐するために、従来考えられてきたよりもはるかに積極的に、さまざまなイニシアチブを発揮していたことを明らかにする。 後半の第 4 章から第 7 章は、近代における疫病の表象の次元を扱う。 19 世紀香港(第 4 章)、英領インドのボンベイ(第 5 章)、 19 ・ 20 世紀転換期ホノルル(第 6 章)、仏保護領モロッコ(第 7 章)を対象とした各章はいずれも、疫病の表象における都市の役割の重要性を強調する。これらの
活動報告1:国際会議 第5回日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性
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活動報告: 2021年1月9日(土)午後2時~5時 Zoom Webinarにて 国際会議 第5回日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性 「19世紀東アジアにおける感染症の流行と社会的対応」 にパネリスト(自由討論でのコメント担当)として参加しました。 ウェブサイト↓ http://www.aisf.or.jp/sgra/research/kokushi/2020/15892/ 感想:19 世紀後半というのは、日本・中国・韓国ともに旧来の政治体制が崩壊し、民族主義が高まる時期、今日の国家につながる国民意識が形成されていく時期にあたる。主権というもののせめぎあいが問題となる一方で、東アジアにおいては、主権という概念の形成過程でもあった。それぞれの開港場において、他国の政府や公館を他者として、主権をめぐる論理を鍛えていった。また日本においては先進的なイギリスなどの医療を他者として、日本独自の医学力を鍛えていった、ということが垣間見えた気がする。 今回の国際会議で興味をもったトピック: 高麗大学の朴漢珉氏報告によれば、定期航路の開設後、ヒトやモノの移動が増加するなか、1886年に朝鮮半島の釜山・仁川・元山といった開港場でコレラの流行がみられた(1886年 というのは、日本でもコレラ発生により最も多くの使者が発生した年であり、 10万8405人が死亡したとのことであった)。しかし、 船舶や人に対する検疫を実施する規定はなかった。そのため仁川では、領事の鈴木充美が各国領事や仁川海関長代理セニケと相談し、仁川港に入港する船舶に対する検疫を実施する臨時規則を取りまとめた。しかし、日本では、日本の船舶にこの規則が適用することにより、自国管理の行政権を朝鮮政府に握らせてしまうことを懸念し、外務大臣井上馨が総理大臣伊藤博文に憂慮を伝え、結局、船舶検疫規則を「取消」することが決定された。ところが、コレラの流行がすでに仁川に広がり、検疫規則の効果はすでに失われていた、といったことなどが紹介された(会議論文:朴漢珉「開港期朝鮮におけるコレラ流行と開港場検疫」より)。 沖縄国際大学の市川智生氏報告によれば、日本の横浜などでは1870年代まで、感染症への対処は、日本人居住地域においてすらイギリスを中心とする居留地側の主導で行われた。1879年のコレラ蔓延のさい、横浜では神奈川県令野
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パンデミックのグローバル史資料整理4: Dean Phillip Bell, Plague in the Early Modern World: A Documentary History , New York 2019. 前回に引き続き、同書の 疫病関連の記述の紹介を行う。 本書は近世のペストと病気に関して、ヨーロッパ、中東、北アフリカ、中国、インド、北アメリカに及ぶ広範囲の歴史資料を収集したもの。資料は、回想録、自叙伝、手紙、歴史書、文学、人口統計、法文書、医学論文、民間療法、宗教文献、マテリアルカルチャー、ビジュアルアートを含む。以下が本書の目次である。 第 1 章 腺ペストの歴史的概観 第 2 章 ペストに関する宗教的見解とそれへの対応 第 3 章 ペストに関する医学的見解とそれへの対応。 第 4 章 ペストに対する政治及び政策面の対応 第 5 章 ペストへの社会の対応:記憶、社会、文化 以下では、ペストの発生年、場所、死亡率等、数的データを得やすい第 1 章を紹介する。 第 1 章の前半部 (pp. 13-33) は、近世のペストに関する前提的知識を説明する。まずペストに関する用語について。「ペスト」という語には種々雑多な病気が含まれ、近世の人々にはペストとそれ以外の疫病を区別することが困難であったことを指摘している。次に近世のペストの性格。本書の対象である第 2 次パンデミック期( 14 世紀~ 18/19 世紀)のペストが、ペスト菌 Yersinia pestis かどうか特定する議論( DNA 解析)の紹介( p. 19 )。 続いてペストの周期的流行について (p. 21-) 。人獣共通感染症 zoonotic disease であるペストは、宿主げっ歯類と人間の間で病原菌が移される。このことが周期性と関連する。周期(波)の間隔は、ヨーロッパでは平均して、中世後期で 11.6 年周期、近世で 13.4 年周期であるという (p. 24) 。ペストによる死者数や死亡率についての記述が 24 頁以降にある。 そしてグローバルな観点 (p.27-29) 。近年の研究は、第 2 次パンデミック期のペストがサハラ以南のアフリカやインド洋に達していたことを示唆し、従来の想定よりも広範囲に及んだことが推定される。その次にペストとその他の疫病の関係を
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パンデミックのグローバル史資料整理3: Dean Phillip Bell, Plague in the Early Modern World: A Documentary History , New York 2019. 同書にみえる 疫病発生に関する表・グラフの解説を行う。 Table 1.1 17 ・ 18 世紀の死亡率、西ヨーロッパの主要都市( 26 頁、本文記述は 25 頁) 情報は複数の研究や一般的概説に拠る。 Encyclopedia Britannica の Plague の項目を含む。表の記載はペスト発生年、人口、ペストによる死者数、死亡率(%)。 なお挙げられる都市は以下。リオン、ミラン、ヴェローナ、ウィーン、バルセロナ、ナポリ、ジェノア、マルセイユ、メッシーナ。 Table 1.2 16 ・ 17 世紀のペスト流行年におけるロンドンの死亡統計( 26 頁、本文は 25 頁) 情報は複数の先行研究に基づく。表には発生年、全埋葬者数とペストの埋葬者数、人口比の死亡率(%)の記載。発生年は、 1563, 1578, 1593, 1603, 1625, 1636, 1665 。 Table 1.3 17 世紀の主要なペスト流行期のアムステルダムの死亡率( 26 頁、本文は 25 頁) 情報は複数の先行研究に基づく。ペスト発生年、人口、死者数、千名当たりの死者数。 Figure 1.1 1655 年の月別死亡者数、ライデン( 26 頁) 棒グラフで示される。単一都市の短期間(月別)死者数を跡付けることで、疫病の進行に関する洞察を得ることが可能。表は夏( 7 月 -10 月)の死者数の上昇を示す。 Figure 1.4 フランクフルト・アム・マインのペスト統計( 1622-40 )( 42-43 頁) (及び、別表として同市のユダヤ人の死亡者数)、情報源はいずれも先行する研究文献。 同市は近世の経済拠点。年別死者数を折れ線グラフで図示。 1625 年(本文記載は 1627 年とある)、 1632 年、 1634-37 年の流行時に死者数が上昇。 別表は、ペストが同市のユダヤ人共同体に与えた影響を示す。中近世ヨーロッパでペスト流行の責任を帰せられたユ
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パンデミックのグローバル史資料整理2: Guido Alfani (Translated by Christine Calvert), Calamities and the Economy in Renaissance Italy: The Grand Tour of the Horsemen of the Apocalypse , New York 2013 (原著は 2010 ) . ここでは、前回に続き、本書では 疫病に関連することはどこに(何ページ、何章)どのように言及されているのか紹介する。 第 3 章( 79 頁- 111 頁)でペストに関して記述される。一部チフスへの言及あり。 本章は対象とする時期を以下のように区分 ①イタリア戦争から San Carlo のペスト (1575-1577) まで ② San Carlo のペストから 16 世紀末の疫病まで 特にイタリア北西部サヴォア公国イヴレーア市に関する記述多し。公的保健行政のひっ迫、人的、経済的な打撃に注目している。 ・ペストの発生年、都市、発生状況、被害状況について 本章の本文中に発生年と都市名の言及がある。網羅することは困難であるため、 Excel の表には記入せず。作成者が本文から抽出できた情報は以下。 1499 年 Rome, Marches, Ferrara, Fiesso, Ravenna, Forli 1500 年 Siena, Verona 1501 年 Genoa, Como, Modena 1502 年 Milan, Lombardy 1503 年 Venice, Placenza, Rome, Ferrara 1504 年 Rome, Reggio Emilia 1505 年 Perugia, Recanati, Florence, Bologna, Verona 周辺の都市 , Ferrara, Rome 1504-05 年 Parma (Romani, 1975) 1505-06 年 Cremona (ペストではなく、 petechial typhus ) 1506 年 Venice 、 petechial typhus 1575 年イタリア半島にぺスト再登場、ト
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パンデミックのグローバル史資料整理1: Guido Alfani (Translated by Christine Calvert), Calamities and the Economy in Renaissance Italy: The Grand Tour of the Horsemen of the Apocalypse , New York 2013 (原著は 2010 ) . ここでは同書につき、疫病発生に関する表・グラフの掲載ページと日本語による解説を行う。 ①付録( p. 176-177 )の年表、「イタリアで発生した主要なペストと飢饉 (1470-1627) 」 ペストによる被害が特に深刻であった主要な都市名の併記あり。諸都市のリストは次の文献に基づく。 Del Panta(1980: 118) 。以上、注記より。下の表(Fig.1)の作成に使用。 Fig.1 15~17世紀イタリアにおける疫病発生 の時期と都市 ②表 3.1 (p. 91 ) 、「 San Carlo のペスト (1575-1577) 都市の死亡率」 都市名と死亡率( 1000 名あたり)、人口が記載される。(データは著者のデータベースより)。 著者によれば、先行研究( Corradi(1973) と Beloch(1994) )より、疫病発生前夜の人口が推計でき、それに基づいておおよその死亡率が算出可能。その結果が表 3.1 。この表からは、 San Carlo のペストが、被害の深刻な都市では、北部イタリアで最後の大規模ペスト (1629-31) に匹敵する死亡率( 30 %超)であったことがわかる。 ③図 3.1 「 San Carlo のペスト (1575-1577) :出生率の低下」 (p. 92 、本文記述は pp. 91-93) 出生率の低下から、人口の危機的状況を 5 段階に分けて、地図上に示す。埋葬に関連するデータの不足のため、死亡については傾向を測定できず。マップは、 San Carlo のペストが比較的限定されたエリアに限られたことを確証する。続いて地域的な差を詳述。結果、都市の疫病であったこと。地方には広く浸透せず。 ④図 3.2 1585 年のペストに対応したイヴレーア市 Ivrea