活動報告1:国際会議 第5回日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性

 活動報告:

2021年1月9日(土)午後2時~5時 Zoom Webinarにて

国際会議

第5回日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性

「19世紀東アジアにおける感染症の流行と社会的対応」

にパネリスト(自由討論でのコメント担当)として参加しました。


ウェブサイト↓

http://www.aisf.or.jp/sgra/research/kokushi/2020/15892/




 感想:19世紀後半というのは、日本・中国・韓国ともに旧来の政治体制が崩壊し、民族主義が高まる時期、今日の国家につながる国民意識が形成されていく時期にあたる。主権というもののせめぎあいが問題となる一方で、東アジアにおいては、主権という概念の形成過程でもあった。それぞれの開港場において、他国の政府や公館を他者として、主権をめぐる論理を鍛えていった。また日本においては先進的なイギリスなどの医療を他者として、日本独自の医学力を鍛えていった、ということが垣間見えた気がする。


今回の国際会議で興味をもったトピック:


高麗大学の朴漢珉氏報告によれば、定期航路の開設後、ヒトやモノの移動が増加するなか、1886年に朝鮮半島の釜山・仁川・元山といった開港場でコレラの流行がみられた(1886年というのは、日本でもコレラ発生により最も多くの使者が発生した年であり、10万8405人が死亡したとのことであった)。しかし、船舶や人に対する検疫を実施する規定はなかった。そのため仁川では、領事の鈴木充美が各国領事や仁川海関長代理セニケと相談し、仁川港に入港する船舶に対する検疫を実施する臨時規則を取りまとめた。しかし、日本では、日本の船舶にこの規則が適用することにより、自国管理の行政権を朝鮮政府に握らせてしまうことを懸念し、外務大臣井上馨が総理大臣伊藤博文に憂慮を伝え、結局、船舶検疫規則を「取消」することが決定された。ところが、コレラの流行がすでに仁川に広がり、検疫規則の効果はすでに失われていた、といったことなどが紹介された(会議論文:朴漢珉「開港期朝鮮におけるコレラ流行と開港場検疫」より)。


沖縄国際大学の市川智生氏報告によれば、日本の横浜などでは1870年代まで、感染症への対処は、日本人居住地域においてすらイギリスを中心とする居留地側の主導で行われた。1879年のコレラ蔓延のさい、横浜では神奈川県令野村靖の招集により防疫会議が組織されたが、そのメンバーには日本人医師のほか、イギリス領事官の医務官やドイツ海軍病院の医務官も含まれていた。1880年代半ば以後、欧米系医師の名前はみられなくなるという。興味深いことに、長崎は東アジア各地からコレラが最初に流入する地であり、幕府によって医学校兼病院である養生所が設立され、出島に滞在するオランダ商館医務官ポンぺにより医学教育が行われ、比較的早くから日本人医師の養成が行われていた。長崎では1876年、居留地委員会が財政難により解散し、行政権は長崎県に返還された。しかしその直後に1877年夏に厦門からコレラが伝播し、長崎で蔓延する。長崎県庁の検疫事務所は日本人スタッフのみであったが、長崎の各国領事官の医務官や停泊中の船医により医療委員会が組織された。長崎でも1885年から1886年にコレラの流行が発生したが、東京から医学士山根正次を招へいし長崎病院でコレラ治療法の研究に従事させ、北里柴三郎にはコレラに関する細菌学的検査を依頼するなど、長崎をコレラ研究のフィールドとして提供したという(会議論文:市川智生「19世紀後半日本における感染症対策と開港場」より)。


今回、パネリストには事前に質問・コメントを提出することが求められた。私が提出した質問・コメントは以下のようなものであった。


日本では、間接的ながら、コレラの流行と民族意識との間には関係が見られた。明治日本において、元福岡警察署長の湯地丈雄や洋画家矢田一嘯という人物が中心となって博多に「元寇記念碑」を建設する計画が進められた。湯地らの活動には、いわば過去の「蒙古襲来」の歴史記憶を呼び覚まし、外国に対する危機意識を高めることで日本人の民族意識の強化を図るという狙いがあった。湯地の念頭にあったのは、先進的な海軍を建設しつつあった清国であった。そのような折、1886年に二つの事件が起こる。一つは長崎事件(長崎に寄港した清国北洋艦隊定遠号の水兵と現地の日本巡査の乱闘事件)、そして、もう一つは、博多でのコレラ流行である(仲村久慈著;三浦尚司監修『復刊 湯地丈雄―元寇紀念碑亀山上皇像を建てた男―』梓書院ほか)

上記の2報告からも、1886年はコレラ流行がもっとも猖獗をきわめた年であり、それが東アジア的な広がりをもつ現象であったことが分かる。そして、長崎はこのときコレラ研究のフィールドとなっていたらしい。当時の日本と清国との間では、台湾問題・朝鮮問題をめぐり対立が深まっていた。しかしなぜこの年に北洋艦隊は長崎に寄港したのか。長崎が日本のなかでもコレラに対処する能力が高い場所であったという認識はあったのだろうか。

会議では、韓国の居留地ではヨーロッパ特にイギリスの主導というのはなかったのか、質問してみた。ヨーロッパの医学力は韓国でキリスト教が支持を得ていくひとつのきっかけにはなったということはできるか、関心があったためである。他の質問と合わせて、コレラによる民衆の側の反応という質問のくくりでお答えがあったが、詳しくはいずれHP上で紹介される会議記録を参照いただきたい。

また南開大学の余新忠氏が「中国衛生防疫メカニズムの近代的発展と性格」という、長期的視野からの報告を行った。中国では古くから個人中心の伝統的な衛生観念があったのことである。日本では、仏教の影響からか、疫病は業病という観念が存在したが、中国ではどうだったのだろうか。むしろ疫病は鬼がもたらすもので疫神の信仰が結びついていたかもしれないが。また古来からの衛生観念という点では、清潔をモットーとしてきたムスリムは、中国というくくりではとらえられないと思われ、どのように位置づけたらよいのだろうか。いずれにせよ、そうした中国の伝統的な衛生観や疫病への社会的対応から近代的な科学的合理性が受け入れられていくうえで、19世紀の感染症への対処はきっかけのひとつだったといえるのか、気になった。 







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