パンデミックのグローバル史資料整理4: Dean Phillip Bell, Plague in the Early Modern World: A Documentary History , New York 2019. 前回に引き続き、同書の 疫病関連の記述の紹介を行う。 本書は近世のペストと病気に関して、ヨーロッパ、中東、北アフリカ、中国、インド、北アメリカに及ぶ広範囲の歴史資料を収集したもの。資料は、回想録、自叙伝、手紙、歴史書、文学、人口統計、法文書、医学論文、民間療法、宗教文献、マテリアルカルチャー、ビジュアルアートを含む。以下が本書の目次である。 第 1 章 腺ペストの歴史的概観 第 2 章 ペストに関する宗教的見解とそれへの対応 第 3 章 ペストに関する医学的見解とそれへの対応。 第 4 章 ペストに対する政治及び政策面の対応 第 5 章 ペストへの社会の対応:記憶、社会、文化 以下では、ペストの発生年、場所、死亡率等、数的データを得やすい第 1 章を紹介する。 第 1 章の前半部 (pp. 13-33) は、近世のペストに関する前提的知識を説明する。まずペストに関する用語について。「ペスト」という語には種々雑多な病気が含まれ、近世の人々にはペストとそれ以外の疫病を区別することが困難であったことを指摘している。次に近世のペストの性格。本書の対象である第 2 次パンデミック期( 14 世紀~ 18/19 世紀)のペストが、ペスト菌 Yersinia pestis かどうか特定する議論( DNA 解析)の紹介( p. 19 )。 続いてペストの周期的流行について (p. 21-) 。人獣共通感染症 zoonotic disease であるペストは、宿主げっ歯類と人間の間で病原菌が移される。このことが周期性と関連する。周期(波)の間隔は、ヨーロッパでは平均して、中世後期で 11.6 年周期、近世で 13.4 年周期であるという (p. 24) 。ペストによる死者数や死亡率についての記述が 24 頁以降にある。 そしてグローバルな観点 (p.27-29) 。近年の研究は、第 2 次パンデミック期のペストがサハラ以南のアフリカやインド洋に達していたことを示唆し、従来の想定よりも広範囲に及んだことが推定される。その次にペストとその他の疫病の関係を
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パンデミックのグローバル史資料整理3: Dean Phillip Bell, Plague in the Early Modern World: A Documentary History , New York 2019. 同書にみえる 疫病発生に関する表・グラフの解説を行う。 Table 1.1 17 ・ 18 世紀の死亡率、西ヨーロッパの主要都市( 26 頁、本文記述は 25 頁) 情報は複数の研究や一般的概説に拠る。 Encyclopedia Britannica の Plague の項目を含む。表の記載はペスト発生年、人口、ペストによる死者数、死亡率(%)。 なお挙げられる都市は以下。リオン、ミラン、ヴェローナ、ウィーン、バルセロナ、ナポリ、ジェノア、マルセイユ、メッシーナ。 Table 1.2 16 ・ 17 世紀のペスト流行年におけるロンドンの死亡統計( 26 頁、本文は 25 頁) 情報は複数の先行研究に基づく。表には発生年、全埋葬者数とペストの埋葬者数、人口比の死亡率(%)の記載。発生年は、 1563, 1578, 1593, 1603, 1625, 1636, 1665 。 Table 1.3 17 世紀の主要なペスト流行期のアムステルダムの死亡率( 26 頁、本文は 25 頁) 情報は複数の先行研究に基づく。ペスト発生年、人口、死者数、千名当たりの死者数。 Figure 1.1 1655 年の月別死亡者数、ライデン( 26 頁) 棒グラフで示される。単一都市の短期間(月別)死者数を跡付けることで、疫病の進行に関する洞察を得ることが可能。表は夏( 7 月 -10 月)の死者数の上昇を示す。 Figure 1.4 フランクフルト・アム・マインのペスト統計( 1622-40 )( 42-43 頁) (及び、別表として同市のユダヤ人の死亡者数)、情報源はいずれも先行する研究文献。 同市は近世の経済拠点。年別死者数を折れ線グラフで図示。 1625 年(本文記載は 1627 年とある)、 1632 年、 1634-37 年の流行時に死者数が上昇。 別表は、ペストが同市のユダヤ人共同体に与えた影響を示す。中近世ヨーロッパでペスト流行の責任を帰せられたユ
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パンデミックのグローバル史資料整理2: Guido Alfani (Translated by Christine Calvert), Calamities and the Economy in Renaissance Italy: The Grand Tour of the Horsemen of the Apocalypse , New York 2013 (原著は 2010 ) . ここでは、前回に続き、本書では 疫病に関連することはどこに(何ページ、何章)どのように言及されているのか紹介する。 第 3 章( 79 頁- 111 頁)でペストに関して記述される。一部チフスへの言及あり。 本章は対象とする時期を以下のように区分 ①イタリア戦争から San Carlo のペスト (1575-1577) まで ② San Carlo のペストから 16 世紀末の疫病まで 特にイタリア北西部サヴォア公国イヴレーア市に関する記述多し。公的保健行政のひっ迫、人的、経済的な打撃に注目している。 ・ペストの発生年、都市、発生状況、被害状況について 本章の本文中に発生年と都市名の言及がある。網羅することは困難であるため、 Excel の表には記入せず。作成者が本文から抽出できた情報は以下。 1499 年 Rome, Marches, Ferrara, Fiesso, Ravenna, Forli 1500 年 Siena, Verona 1501 年 Genoa, Como, Modena 1502 年 Milan, Lombardy 1503 年 Venice, Placenza, Rome, Ferrara 1504 年 Rome, Reggio Emilia 1505 年 Perugia, Recanati, Florence, Bologna, Verona 周辺の都市 , Ferrara, Rome 1504-05 年 Parma (Romani, 1975) 1505-06 年 Cremona (ペストではなく、 petechial typhus ) 1506 年 Venice 、 petechial typhus 1575 年イタリア半島にぺスト再登場、ト
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パンデミックのグローバル史資料整理1: Guido Alfani (Translated by Christine Calvert), Calamities and the Economy in Renaissance Italy: The Grand Tour of the Horsemen of the Apocalypse , New York 2013 (原著は 2010 ) . ここでは同書につき、疫病発生に関する表・グラフの掲載ページと日本語による解説を行う。 ①付録( p. 176-177 )の年表、「イタリアで発生した主要なペストと飢饉 (1470-1627) 」 ペストによる被害が特に深刻であった主要な都市名の併記あり。諸都市のリストは次の文献に基づく。 Del Panta(1980: 118) 。以上、注記より。下の表(Fig.1)の作成に使用。 Fig.1 15~17世紀イタリアにおける疫病発生 の時期と都市 ②表 3.1 (p. 91 ) 、「 San Carlo のペスト (1575-1577) 都市の死亡率」 都市名と死亡率( 1000 名あたり)、人口が記載される。(データは著者のデータベースより)。 著者によれば、先行研究( Corradi(1973) と Beloch(1994) )より、疫病発生前夜の人口が推計でき、それに基づいておおよその死亡率が算出可能。その結果が表 3.1 。この表からは、 San Carlo のペストが、被害の深刻な都市では、北部イタリアで最後の大規模ペスト (1629-31) に匹敵する死亡率( 30 %超)であったことがわかる。 ③図 3.1 「 San Carlo のペスト (1575-1577) :出生率の低下」 (p. 92 、本文記述は pp. 91-93) 出生率の低下から、人口の危機的状況を 5 段階に分けて、地図上に示す。埋葬に関連するデータの不足のため、死亡については傾向を測定できず。マップは、 San Carlo のペストが比較的限定されたエリアに限られたことを確証する。続いて地域的な差を詳述。結果、都市の疫病であったこと。地方には広く浸透せず。 ④図 3.2 1585 年のペストに対応したイヴレーア市 Ivrea
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パンデミックのグローバル史研究文献紹介5: Yaron Ayalon, Natural Disasters in the Ottoman Empire: Plague, Famine, and Other Misfortunes , New York: Cambridge University Press, 2015. 本書は、オスマン帝国における自然災害、飢饉、地震、そして感染症が、いかに政治や宗教に影響を与え、ひいては共同体や個人を変容させたのかということを提示している。扱われている時代、地域は章によって多岐にわたっている。以下ではそれぞれの章で述べられている内容の概略を示しておきたい。 第 1 章では、 1346-53 年にヨーロッパと同じく大流行した黒死病( Black Death )が、オスマン帝国の形成に一役を買うことになったことが示されている。つまり、これをきっかけとしてビザンツ帝国の求心力が低くなり、他方オスマン帝国が新しい秩序を形成することが可能になったことが述べられている。さらに、著者によれば、黒死病の影響力は、ヨーロッパ諸国とオスマン帝国で違いが見られるという。つまり、ヨーロッパでは、黒死病をきっかけとして大きな影響力を持つ主体が、教区から都市の権力へと移行するが、オスマン帝国では宗教的権力が失われることはなく、また都市は自立化するようになったことが示されている。 つづく第 2 章では、特に 17 世紀半ばダマスカスで起こった地震にかんするケーススタディを通して、 16-17 世紀の自然災害について考察される。そして、第 3 章では 17-18 世紀のシリアにおいて、ユダヤ教徒とキリスト教徒の共同体それぞれがどのように災害に対応していったのかが検討される。その後、第 4 章でオスマン帝国におけるオスマン帝国におけるさまざまな時代で個人がいかに疫病に対処したかということが示されるが、この章の 137 頁から一部だけ黒死病に関する記述が見られる。最後の第 5 章では、 1855 年にブルサで起こった地震、そして 1890 年代に流行ったコレラがイスタンブルの都市計画などに大きな影響を与えたことが示される。 本書のなかで、疫病に関わる記述があるのは主に第 1 章の黒死病にまつわる部分と第 5 章のコレラについての部分であるが、
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パンデミックのグローバル史研究文献紹介4: Zlata Bla žina Tomić and Vesna Bla žina (2015), Expelling the Plague: The Health Office and the Implementation of Quarantine in Dubrovnik, 1377-1533 , Montreal & Kingston/ London/ Ithaca. 本書は、アドリア海沿岸のドゥブロヴニク(ラグーザ)における疫病対策の展開を跡づける。この共和国では、 1377 年に世界で初めて隔離の概念が形成され、 1390 年には、 市参事会により日常的に公布される防疫規定の実施を担う記録上初の保健衛生局 Health Office が設置された 。著者らは、ドゥブロヴニクにおいてなぜ隔離という当時一般的でない方法が採用されたのか、なぜ史上初の保健衛生局が設置されその後常設となったのか、この機関が都市に与えた影響とは何か、防疫規定の実施に分水嶺はあったか、結果的にドゥブロヴニクは疫病に勝利したのかという問いに答えることを目指す。用いられる史料は、年代記や遺言書のほか、共和国の 3 つの統治機関の記録、裁判記録を含む保健衛生局関連史料等である。 キリスト教世界とイスラーム世界、および地中海とバルカンの交差点に位置するドゥブロヴニクは、経済的繁栄を維持するために外来者への門戸を閉ざすことなく、隔離という当時では新奇な方法を採用することによって、疫病から都市を守ることを目指した。このことは、政府が疫病を陸海路両方からもたらされる伝染性の病だと認識していたことを示しており、この認識にもとづき、疫病発生時には到来する船舶の入港制限などの対策もとられた。 1397 年に保健衛生局が常設となってからは、疫病の切迫の程度にかかわらずこの機関が疫病対策をつねに実施した。というのも、ドゥブロヴニクは当時疫病のおもな感染源地域と考えられていたオスマン帝国と陸の境界を接しており、またオスマン領から日常的に船舶が到来していたからである。著者らの推定では、直接的にはオスマン領内から、間接的にはイタリア諸都市を経由して到来した船舶の入港が、ドゥブロヴニクに疫病が持ち込まれる主要な経路である。 1457 年以降は、小評議