パンデミックのグローバル史研究文献紹介4:
Zlata Blažina Tomić and Vesna Blažina (2015), Expelling the Plague: The Health Office and the Implementation of Quarantine in Dubrovnik, 1377-1533, Montreal & Kingston/ London/ Ithaca.
本書は、アドリア海沿岸のドゥブロヴニク(ラグーザ)における疫病対策の展開を跡づける。この共和国では、1377年に世界で初めて隔離の概念が形成され、1390年には、市参事会により日常的に公布される防疫規定の実施を担う記録上初の保健衛生局Health Officeが設置された。著者らは、ドゥブロヴニクにおいてなぜ隔離という当時一般的でない方法が採用されたのか、なぜ史上初の保健衛生局が設置されその後常設となったのか、この機関が都市に与えた影響とは何か、防疫規定の実施に分水嶺はあったか、結果的にドゥブロヴニクは疫病に勝利したのかという問いに答えることを目指す。用いられる史料は、年代記や遺言書のほか、共和国の3つの統治機関の記録、裁判記録を含む保健衛生局関連史料等である。
キリスト教世界とイスラーム世界、および地中海とバルカンの交差点に位置するドゥブロヴニクは、経済的繁栄を維持するために外来者への門戸を閉ざすことなく、隔離という当時では新奇な方法を採用することによって、疫病から都市を守ることを目指した。このことは、政府が疫病を陸海路両方からもたらされる伝染性の病だと認識していたことを示しており、この認識にもとづき、疫病発生時には到来する船舶の入港制限などの対策もとられた。1397年に保健衛生局が常設となってからは、疫病の切迫の程度にかかわらずこの機関が疫病対策をつねに実施した。というのも、ドゥブロヴニクは当時疫病のおもな感染源地域と考えられていたオスマン帝国と陸の境界を接しており、またオスマン領から日常的に船舶が到来していたからである。著者らの推定では、直接的にはオスマン領内から、間接的にはイタリア諸都市を経由して到来した船舶の入港が、ドゥブロヴニクに疫病が持ち込まれる主要な経路である。
1457年以降は、小評議会にかわり元老院が保健衛生局と協同することになり、疫病発生のたびに新たな防疫規定が公布され、保健衛生官の任務は複雑化するとともに、彼らに幅広い行政的・司法的権限が付与されるようになった。保健衛生官は医療の専門家ではなく、実務家であり、経験の蓄積と直接の観察にもとづき、危険と隣り合わせの業務に従事した。しかし、当局の一連の施策に従わない者も見受けられ、そうした人々は司法裁判にかけられ、刑事罰が科されることもあった。
1526‐27年には、ドゥブロヴニクにおいて1348年の黒死病以来もっとも深刻な疫病が発生した。新たにより厳格な防疫規定が採用され、無症状者を含む感染者および汚染が疑われる物品の動きを追跡する意図から、政府は市民についての膨大な情報を収集し、このことはさまざまな社会集団間の関係に変化をもたらした。防疫規定に背いた者には拷問等の厳罰が科され、ときに死刑が宣告されることもあった。
14世紀後半以来の防疫実践の蓄積にもかかわらず、甚大な被害をもたらした1527年の感染発生を回避できなかった理由として、著者らは、感染した船舶がレヴァントから日常的に到来していたこと、イタリアの支配権をめぐるフランスとスペイン間の戦争により、1520年代には地中海とアドリア海における軍隊の移動が常態であり、さらに病原体の変異により疫病の性質自体が致死率の高いものへと変化していたこと、そして当時は疫病の病因や感染経路について未解明だったことを指摘する。とはいえ、ドゥブロヴニクが採用した防疫策は、16・17世紀ヨーロッパの多く都市でスタンダードとなり、それは現代の感染症対策にも通じていると結論づけられる。
コメント
コメントを投稿