パンデミックのグローバル史研究文献紹介1:
Nükhet Varlık, Plague and Empire in the Early Modern
Mediterranean World: The Ottoman Experience, 1347-1600, 2015, Cambridge.
本書は、先行研究の次の5つの問題点を克服することを目指す。(1)疫病の歴史がヨーロッパ中心に語られてきたこと、(2)14世紀中葉の黒死病の発生を対象とするものが大半であること、ゆえに(3)なぜこの伝染病が長く存続したのかについて説明されてこなかったこと、(4)キリスト教社会とムスリム社会の間の差異が前提とされてきたこと、(5)オスマン朝の疫病経験についての唯一のモノグラフが、ヨーロッパ中心の疫病史を内面化していること。著者は黒死病から16世紀末までを対象とし、オスマン朝における疫病の経験を三段階に分けて明らかにする。オスマン史における「長い16世紀」とも一致するこの時期は、オスマン朝の勢力拡大で知られるとともに、疫病の基本的な感染経路が明確になる時期でもある。この時期には、疫病に対するオスマン朝の認識・対応の重要な変化を見出すことができる。史料は、オスマン政府文書、医学書、聖人伝、旅行記等であり、近年の科学的研究の成果も参照する。
第一段階(1453-1517)は、第一波(1466-76)・第二波(1491-1504)・再発期(1511-14)に分けられる。まず時間幅について。第一波・第二波は10年あるいはそれ以上継続するのに対し、再発期における流行は短い。次に当初の発生地について。第一波は陸路、第二波は陸海路両方を辿り、西方からオスマン領へと拡大した。再発期は黒海周辺から発生し、新たな流行パターンの登場が示唆される。最後に感染拡大の様相について。第二波では第一波で史料上に発生の言及がないアナトリアでも拡大し、シリア・エジプトへ/からの中継点になった。第一波・第二波ともにオスマン帝国と他国との戦争があった時期と感染拡大時期が一致する。エディルネ・ブルサ・イスタンブルといった都市の発展、それにともなう交易とコミュニケーションネットワークの発達は、辺境から人々を常にひきつけ、疫病の定期的流行をもたらした。
発生頻度・地域ともに第一段階から大幅に増加した第二段階(1517-70)は、多様な感染経路の登場によって特徴づけられ、第一波(1520-29)・第二波(1533-49)・第三波(1552-68)に分けられる。第一波は、シリア・エジプト・ロドスの征服により南北路が形成され、ただちに第一段階の東西路と接続された。第二波は、急速に地中海に拡大し、イスタンブルにも深刻な影響をもたらした。従来とこの時期の相違点は、(1)イスタンブルは従来のように感染がもたらされるのではなく、最初の発生地となったこと、(2)イスタンブルが疫病の分配者となったこと、(3)アナトリアがイスタンブルとペルシアの中継点となったこと、(4)アナトリアから東方へ感染が拡大したことである。アナトリアの都市ネットワーク、東地中海ネットワーク、黒海ネットワークが発達し、既存の経路と接続されたこと、また私掠活動の高まりも合わさり、感染経路は拡大し複雑化した。第三波で、発生頻度はさらに増し、オスマン朝の地中海における存在感の高まりに呼応して、西地中海で発生した疫病が急速にオスマン朝の中心地域へと伝播することになった。
第三段階(1570-1600)は、「疫病のハブ」としてのイスタンブルに焦点があてられる。感染の波は一度きり(1570-1600)だがその影響は持続し、17世紀前半まで疫病の存在は常態的なものとなった。特徴的なのは、この時期には一度イスタンブルで疫病が流行すると、もはやその後外部からもたらされずとも都市内部で感染が持続する点である。感染経路は第一・第二段階で言及されたものと同様であるが、これらが統合・固定化され、ローカルな伝播とも結びつくこともあった。
疫病が支配領域内に常態的に存在したことは、オスマン朝政府の認識・姿勢・対応にも重要な変化をもたらし、それはこの近世国家の形成過程に寄与した。
藤田風花
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